出会いがあって生まれるもの


小澤清子

「毎日忙しいなかでの一時を、無理をしても自分の為に、何か見つけて楽しまないと、出来なくなるときが必ずあるから。」と私はよく友達に言った。

かと言って私がすごい事をしていた訳ではないが、自分の環境がそうせざるをえなかった。
ちなみに、主人の母と同居であることも一つの要因であったが、他人に言う事によって自分自身に言い聞かせていたのである。

 この年になると、さまざまの経験をする。
子供の結婚、孫の誕生、身内の不幸もある。子育てが済み、悠々自適な生活をしている人もいる。人、それぞれ三人三様である。私達もそうなれるものと思っていたが、人生思う様にならなかった。

 この数年、私の両親、そして最後の息子を亡くし深い悲しみを味わった。そんな時、切ない思いを外に出て発散させた。

縁あって県立美術館の実技講座に通い、大きな石から息子の地蔵を彫った。その地蔵は母の日に東京都美術館で入選したのです。
息子から私に最後のプレゼントをしてくれたのです。

 友達に告げると、忙しいのにも拘らずすぐさま東京まで駆け付け共に喜んで下さったのです。本当に有難いと思いました。

 息子の地蔵は三回忌にお寺に安置させて頂きました。その後地蔵の回りを、いとおしそうに芝を刈っている主人の姿を目にした時、これはやっぱり二人への息子からのプレゼントなのだと痛感した。

 又、友達の感化で、生まれて初めてパッチワークに挑戦した。まず元気であった両親の姿を思い出しながら形見の羽織をほぐした。作品にすることによって、もう一度日の目を見させてあげたいと思った。そして私達に作品から励ましのエールを送ってくれる気がしたのです。

 いつも部屋は古布で散乱していたが、私の心を知ってか主人は一言も言わなかった。そっとしていてくれた主人の気持ちが嬉しかった。
 メガネをかけても針に糸がなかなか通らず四苦八苦しながら沢山の波形をパッチワークして、やっとのことで屏風に仕上げたのです。

 いても立ってもいられない深い悲しみを乗り越えるのには、なにかに無心で一生懸命没頭していなくてはいられないのです。

 子育ての時代とは違って、この年になって出来ること。人それぞれ大切なものはちがいますが、その大切なものを大切に扱ってすべき仕事があるような気がするのです。
 ある本に『怠惰で百年生きるよりも努め精んで一日生きる方がまさっている。』と書かれいました。これからの人生、生き生き生きて年を重ねたいですよね。

 主人も念願だった竹炭との出会いがあり、竹の伐採から焼きあげるまでの工程に挑戦している。
「奥が深いので満足の竹炭をつくることは難しいが、それないに出来上がりが楽しみだ。」と本を片手に研究熱心な主人は言う。
 焼き上がった竹炭で仲間とバーベキューをしたり、癒しの竹炭は枕やペンダントに又、家のあちらこちらに利用し登場している。

 二人の作品は掛け替えのない苦しみの中から生まれたと同時に、皆様の温かい心に触れていたことに感謝している。
 数年の張り詰めた気持ちから疲労が重なり、ある日階段から足を踏み外して入院。
一歩間違えれば半身付随か即死もありえる。自分自身も生と死の紙一重にいたのです。

勿論炊事洗濯をしたことのない主人がこの時ばかりは一生懸命家庭のことをやってくれたのです。退院後も「俺がやるからいいよ。」と言ってくれたので私も当分の間その言葉に甘えていました。
 その後は一日一日を噛みしめて自分の目標に向って自分なりに着実にこなすよう心掛けているのです。

 生きていることが当たり前だと思っていた私は、朝目が覚めて『生きているんだ。』と、実感し喜びとなったのでした。
 なのに明けても暮れても、これでもかこれでもかと、新聞やテレビでは目をふさぎたくなる事件が後をたたない。

 又、火のないところに煙をたたせ、人の足を引っぱりうわさ話や醜い争い事を話の種にしている人もいる。そんな話を聞くのはもうくさくさする。

 二十一世紀に心掛けていることは、絵手紙に、つたない俳句をそえて私の気持ちを相手に伝えることだ。もしかしたら相手にときめく感動を与えることが出来るかも知れないと思うと筆を取ってしまう。

又、お菓子作りや、パンフラワーの経験を生かし、さらにチャレンジしながら時を重ね、ときにはゆっくりと穏やかにティタイムが主人と、そして仲間と楽しめたらいいなぁと思うのです。