ある少年兵の生涯


木村 敬

太平洋戦争たけなわであった昭和十九年の頃には、適齢の少年達は挙がって軍学校を志願した。

少年飛行兵学校の採用試験に合格して入校してくる少年達の中に、僅かではあるが台湾や半島出身の少年がいた。
 私の受け持っていた生徒の中にも、日本名Aという半島出身の生徒がいて、出身の違いを他の生徒に感じさせないための教育方法には随分と苦労した。

 しかし、A生徒は他の生徒に比較して、何等その違いを感じさせない生徒であった。
父親のいない彼は毎日の就寝時前の反省時間には、チョゴリを着た母親の写真を前にして家族への思いに浸りながら、立派な軍人になるにはどうすればよいのかと常に反省録に認めていた。

 やがて基礎教育が終り適正検査の結果で、彼は航空通信に決定したが、私の説得にも応ぜず断固として操縦志望だと言い張った。
そのねばりの強さに私はまいってしまった。

その頃から戦況が更に悪化し、米軍の本土上陸に備えて地上戦闘訓練が始まったことで、彼はようやく操縦志望を諦めた。
連日の炎天下で横穴方式の分散教室造りの作業の最中に、突然終戦を迎えることになった。
 急きょ被服や糧食類を生徒に分配し、出身地毎に最寄り駅へ送り出して生徒の復員業務を完了させた。

A生徒も彼を待った九州の母親の元へ無事帰りついたとのことである。
 漸く復興の兆しがみえ始め、平和が甦ってきた数年後のある日かつての生徒たちの集いが催されて私も参加した。集いにはA生徒の姿はなく彼の消息を知る者もいなかった。
その後何回かの集いにも彼は姿を見せずじまいであった。

 私が仕事の都合で東京に転居して間もなくのこと、突如電話で「Aですっ、区隊長殿お元気ですが、やっと探し当てましたっ、是非お逢いしたいです」と涙声で連絡してきた。
その夜は三十年振りの再開で、彼と盃を交わし積もる話が延々と続いた。

 話続ける彼にはかつての面影はなく、戦後の苦労がしのばれる思いが感じとれた。
彼は思い直して涙ぐみ戦後たどってきた経路を話し始めた。

復員して九州の母親の元にたどりついたのも束の間で、韓国籍であるという事で、未だ見ぬ韓国へ引き揚げるることに決った。
 彼は韓国語を話せない悩みと、親類からの厄介者扱いをうけ揚句の果て職はなく、さらに母親を病で失い周囲からは日本生まれの韓国人と白眼視されて、日常生活にも事欠き韓国軍に応募した。
 元日本の少年兵という事で下士官となり、生活苦からも開放され安住できる事となった。

だがその頃から南北朝鮮の間が日増しに悪化し、遂に戦火を交えることになった。
彼は砲煙弾雨の第一線部隊に参加していたが、幸い負傷もせず無事任務を終えて除隊した。

 是非再び日本に行きたいと決心した彼は、人伝えに聞いた密航船を探しだし、所持品の全てを金銭に替えやっとの思いで九州にたどり着くことができた。
憧れの日本でも密航者ということで生活に困り、浮浪者生活を続けていた時偶然に同期生と再会した。

お陰で救われ職にもありつけた。
 間もなく喜代子という日本女性と知り合って結婚した。やがて女児を出産し、貧しくても楽しい日を送っていた。娘が成長して小学校への入学が迫ってきたので、早く帰化したいと手を尽くしたが密航が原因で、思い通りはこばず困り果ててしまった。

 これを聞きつけたかつての同期生たちが集まり全国で署名運動を始める活動をした結果遂に帰化が正式に認められ、日本人となることができた。
私は祝賀の席で彼に再会を約束して別れたが、その後の恒例の集いにも出席しないので、皆で心配していた矢先に家族から、入院しているという連絡をうけた。

だが病状が不明の侭に月日が過ぎてしまった。その年の暮れになって再び家族からの連絡で訃報をうけ、始めて彼が他界したことを知った。
 私はその時合掌しながら、A生徒の五十五年間の生涯は一体何であったのかを考えてみたとき、彼は日本人に成り切れた喜びと、親として子供への責を果たし得たという二つではなかったのかと思う。

 今は唯A生徒の御霊に、君が望んだこの日本の地に永遠に安らか眠りを続けてくれることだけを願い祈るだけである。

 日韓両国が敗戦を境に何かとぎこちない感情が表面化している昨今、こんなエピソードが相互理解に役立てればと思っている。