青葉木菟(あおばずく)

川本 武史

 巣立ちしたばかりの青葉木菟の雛が、重い石ののっかっている木箱の下から、どうして一夜のうちに逃げ出したのであろうか。これは総一郎にとっては解くことのできない二十年間の謎であった。

 幼稚園の頃、毎年の夏、母とともに過ごした明石の別荘でのある夕べのことであった。

 夕闇迫る中で、総一郎は青葉木菟の子を庭の木陰で見つけ、追い回したあげく、ようやくつかまえた。一時間くらいかかったであろうか。総一郎は青葉木菟を自らつかまえたのは初めてのことであったから、夏休みの宝物のように思えた。

そこで明日、帰郷のときには、それを持ち帰りたいと母に申し出た。母はうなづいて、下男の音蔵じいに手伝わせ、その夜は納屋の中に木箱で伏せ、その上に大きな石を乗せて寝た。

 その夜総一郎は、何度となく木菟の夢を見た。一緒に遊んでいる夢であった。日頃は木菟を追いかける総一郎が、夢の中では逆に追いかけられていた。木菟の頭の毛を引っ張って嫌がらせをしたので、木菟が怒ってくちばしを尖らせて追いかけて来たのである。

逃げながら時々振り返っては木菟をからかったので、木菟は「キイキイ」と声を張り上げて追いかけて来た。そして追いつかれた総一郎は、くちばしで頭をつつかれるのが嫌で、ポケットから餌をやって仲直りした。

 それから一緒に野原を走った。頭をふりふり「ホウホウ」と鳴きながらついてきた。二度三度同じような夢を見たためか、総一郎はいつもより早く目が覚めた。しばらく寝ぼけ顔で夢の中の木菟を思い出してはいたが、急に木菟のことが心配になってきた。
そこで寝間着のまま納屋に出かけていった。木箱は夕べのままで、石も乗っかっていた。

丁度音蔵じいが納屋に入って来たので、木菟を見ようとして石をのけて貰った。ドキドキしながら木箱の中を覗いた。
ところが、居るはずの木菟がいなくなっていたのである。音蔵じいに尋ねたが知らないと言う。そのうちに母の姿が見えたので母にも訴え、いなくなった訳をいろいろ尋ねてみたが、母も知らないと言う。

そして不思議なことだと答えるばかり。音蔵じいもそばから、箱の位置も石も昨夜のままだし、床との間にすき間もないのに鳥はいなくなったという。

 これで夏休みの手柄話は、どこかへ消し飛んでしまった。それにしても、不思議なことがあるものだと首をひねったが、どうしようもない。総一郎は空箱をじっと眺めるだけで、諦めるよりほかはなかった。

 これが出来事の全てである。しかし、総一郎は、母がこの時言った「知らない、不思議なことだ」という言葉を疑うことなく、それからもその不思議さを解こうとし続けた。

それがなんと二十年もたったある時に突然判ったのである。

それはふと、、、、、、、、 「あの青葉木菟は逃げたのではなく、誰かが逃がしたのではなかろうか」ということであった。総一郎はこの考えが突然頭をかすめた時、思わず「なーんだ」といっておかしくなってきた。これは、常識で考えれば、まことに滑稽なことであった。

しかし、総一郎は二十年もの間、このことにこだわり続けたのである。「二十歳ともなれば、時には、人は嘘を語ることくらいは知っていた。それにも拘わらず母の言葉だけは信じて、疑うことはなかった。むしろ疑うことのない自分に驚きさえ感じていた」のである。

 このことを精神的な乳離れの遅さと笑うことはたやすい。しかし、そこまで母を信じて疑わなかった子の心の純粋さを、またその心を育んだ母の愛の深さを、誰が笑うことができるだろうか。

「総一郎は不仕合わせに生まれ合わした子供だと思います。それにつきましても、私は人並み以上に親の責任を感じますし、また教育上についても人一倍の心配と骨折りとがございました」とは、若くして亡くなった彼女の追悼文集「追憶」のなかの一節である。

 この文集を紹介された川井精一氏は、この「不仕合わせに生まれ合わした子」の意味について、総一郎が二十歳のとき手紙でそれとなくその意味を告げている。

 「世は、あなたの恵まれた境遇を羨むものはいませんでした。世の並の母にあなたの御境遇を持たせたならば、すこぶる得意にして、最も貴族的な育て方をあなたに与えた事でありましょう。

しかるにお母様は、子の点においてかえってあなたを不仕合わせな者と看ておられました。誠に希にみる非凡な洞察であると思います。

かくてあなたの、この不幸を、幸福に転ずべく払われたお母様のご努力は、並大抵のものではなかったのです」と。

 須恵子は時には冷淡に振る舞い、また口をきかないことさえあったという。

多くの使用人に囲まれた「若様」「お坊ちゃま」の位置におかれた息子を、厳しく育てるためには、母は時に心を鬼にしたのである。どんなに寒い冬でも素足で過ごさせ、ズボン下をはくことも許さなかった。しかし、心を豊かにする環境づくりには誰にもまして献身的に努めたのである。

(注)
 「こんな美しい経済人はいませんなあ、、、」とは、松下幸之助の含蓄ある言葉である。

大原総一郎とは、倉敷紡績、倉敷レーヨンの社長で、財界の良識と言われた人。昭和四十三年七月に癌で亡くなった。五十八歳であった。

(注)倉敷美術館は、父孫三郎が創設したもので、その向かえに美観地区の中心でもある大原邸と通称「紫御殿」といわれる別邸が隣り合わせに現存している。大原家の人達は、現在は京都に住んでおられるようだ。

(参考、引用図書)
「へこたれない理想主義者」井上太郎著  (講談社)


小生は、倉敷の出身で両親も同じです。子供の頃より大原親子のことは祖父や叔父達からよく聞かされていました。
静岡市在住    川本 武史