幸せのお手伝い

 命あるものには必ず終りがあります。その限りある命をどう生きるか、生き方を考えることができるのは、人間だけに許された特権だと思います。

 時として、人生には思いもよらぬ試練が待ち受けていて、足元を掬われたり、足止めされたり、病気も例外ではありません。

 私は五十四歳の時に、中華料理店を経営していた最愛の息子を亡くしました。息子を頼りにし、何の不満も心配もない暮らしから、突然、奈落の底へ突き落とされたのです。
泣き叫び、どんなにもがいても、焦っても、一向に出口が見えてきませんでした。こんな悲劇が何故自分に起きたのかと戸惑い、底の知れない悲しみに引き込まれ、一時は生きる気力を失いました。

 希望のない抜け殻のような日々をおくる私を、まわりの人たちは心配して、「どんなに辛く苦しくても明日があるよ。」と、励ましてくれました。また中華料理時代のお客からの要望もあり、息子の残していった店を居酒屋に切り替えて、午後の四時から九時までの短い時間を、リハビリの場として開店することにしました。

大勢の人に背中を押されての決断でした。個性豊かなお客との拘わりから、多く学び、励まされ、忙しさの中で少しずつ心を取り戻していきました。仕事の合間には、友人に誘われるままに趣味を広げ、自分を磨きながら、小さな喜びを積み重ね、十年かかってやっとリハビリを終了するこができました。

 悲しみは人に代わってもらえない、自分で消化するしかないと悟り、長い葛藤のはてに終了を迎えたのです。その間、日常の出来事や心の移ろいを、書き綴ったエッセイ集も四冊になっていました。

 閉店後は、今の私に何ができるかと模索の日が続き、ふと、好きで習った絵を思い出し、病気の友人に絵手紙を送りました。これが大変喜ばれ、私を目覚めさせてくれました。

 現代は恵まれた生活をしながら、心が貧しいと言われます。家族がいても孤独に悩んでいる人がいます。愚痴を聞いてほしい人。誰かに知恵を借りたい人。お友だちを探している人。いわずとも人はみな多少の悩みを抱えているものです。

 私はこんな人たちの力になりたいと思い始めました。自信があったわけではありませんが、「一歩を踏み出せば必ず道が出来る、お袋頑張れよ。」と亡き息子の大きな声が、聞こえました。その声に導かれ一歩を踏み出しました。

今では三十余人の方々に、独りぼっちじゃないことを伝えたいと、心を込めて絵手紙を送っています。そのために、パソコンに挑戦し、プリンター印刷もうまくなりました。その絵手紙が、二〇〇枚になったと、お礼の葉書をもらったときには、感慨深いものがありました。

 絵手紙を送ることで信頼感が深まり、受け取る側が心を開き、明るく元気になってくれることが私にとっては一番嬉しいことです。
 こんなささやかな私の気持ちが人づてに広がり、絵手紙を教えてほしいと仲間が集まり、今や六十五人という大きな輪になり、ますますの広がりを見せています。それぞれが私の考え方や心情を理解し、絵手紙を善意に役立ててくれています。

 人間は幾つになっても生き方を変えることができます。そのためには希望を失わず、目標をもつことだと思います。今では絵手紙は私の生きがいとなり、自分の役割をしっかりと見つけたように思っています。
裾野市平松    
沢田 八重子