針と共に五十年

 針、それは私の友であり、又恩人でもある。明治生まれの私達は、小学校を卒業すると殆どの人が、女は裁縫を身につけるのが常識のようであった。
私も御多分に洩れずその一人で、小娘の頃から、白髪の今日に至るまで、いつも生活を友にしてきた。お陰で一本の細い針によって、どんなにか生活を支えて貰った事でしょう。

思えば今から七十年も前、昭和の初めの頃は、メリンスの袷一枚縫って五十銭の仕立て代を頂き、それでも月、十円、十五円の仕立て代を得た時の喜び、思い出しても懐かしさがこみ上げて来る。

 人は誰でもオギャアと生まれてきて、おむつのお世話になり、やがては庭の哀の曲の別れとなるまで、一人残らず針のお世話にならぬ物はない。
 赤ちゃんの産着、七五三のお祝い、はては式服から喪服に至るまで、または心も浮きたつお祭の法被等々、静かに瞼を閉じれば、それぞれの想い出が、まるで走馬灯の様に浮んできて、その懐かしさに瞼が熱くなる。

 洋服仕立ては、殆ど能率の上るミシンによってOKとなるのだが、和服となれば、今でも上物は手縫いで、ゴマ化しは利かず、それだけに暇もかかるし、技術も要するので、価値があると思う。和服と云ってもピンからキリまでで、例えば、寝衣とか、幼児物は殆どミシン仕立ての様だ。その方が価格も安いし、デパート等で簡単に購えるから却って経済的かも知れぬ。

 昔は絹物は「柔らかい物」といって、それだけにお品もいいし、仕立てもおろそかではなかった。

“微風だに   動く羅(うすもの)むし暑き 室閉めきって   箆(へら)付けをする”

私の若かりし頃の日記帳に記されている短歌の一首だ。一口に和裁と言っても、その品質によって、それなりの神経を使い、例えば縮緬(ちりめん)の様に湿気を嫌うものは、雨天の日は絶対に禁物だ。

「楽しい」といえば七五三のお祝い着のお仕立てでしょうか。仕上がった、と言ってもこれには未だ大仕事があるのだ、子供のお祝い着といえば、これからが腕の見せ所で、長い丈のお着物をその児の丈に合わせて腰揚げをしなければ着せることが出来ない。
時によって、二段揚げも。子供のお祝い物は、この揚げによってお仕立人の腕が判ると言っても過言ではない。

 次は式服に移ろう、訪問着、留袖、喪服となると、又違った針との相談が要る。柄を慎重に合わせて裁断し、標(へら)付けを終わると、膝に眩しいばかりの金粉銀粉をこぼし乍、針を運ばせたあの頃、本当に私までが幸せ者だと思った。今だ見ぬ新婚さんの美しいカップルを想像しながら箆台に座る。

“金粉を膝にこぼしつ   春着   縫う”

こんな句が生まれて来たっけ

又「花衣   脱げばまつわる   紐いろいろ」    これは女流俳人、杉田ひさ女の句。

 それから「絹を着て   木綿随筆   書きにけり」の川柳は、当時の有名作家、森田たま女の作だ。

 そうだ、お祭りの踊りの浴衣は仕立てが楽しく、自然と心も躍ってくる。
絹物仕立ての緊張感も解けて、屋台の軋む音、扨ては賑やかな笛、太鼓、祭幟に吊されて、キイキイ鳴くおさるさんの声?までが聞こえて来そう。

そして、浴衣の柄は、皆、涼しそうな団扇とか、蛍とか、又はこぼれ萩とか…

今は時代の変遷によって、大分抽象的になり、昔の俤は殆ど消え失せた。

 針には確かに心と生命があると思う。それには縫う人の心と針とが一体にならなければ絶対に良いお仕立ては出来ない。人はそれぞれの体型があり、普通の男女の仕立て上げ寸法は、ちゃんとあるのだが、厳密に言うと、十人十色で、例えば下腹の突き出た人、お乳の盛り上がった人、怒り肩、撫で肩、或は猫背の人等々、私は成るべくその人の体型に合わせてお仕立てをして来た。

 今は大の仲良しだった針さんとも、ごぶさた限り、或る人が私の後姿を見て「横山さんは長い間曲がってお仕立てをされたので、それで背中が丸くなったのでしょう」と、或はそうかも知れぬ、此の友達の卆直の言葉に、私は嬉しいとも、悲しいとも違う、複雑な涙が一滴流れてきた。

 併し又それ故に一つプラスの点もある。それは一日中正座をしていても、大した苦痛にもならない。習慣と言うものは長い間に身についてしまうらしい。最後に私の今の心境の短歌を…。

一筋に   針持つ生活五十年   労わりさする箆胝の手を

掛川市南                 
横山 清子 92歳